2024年7月17日

【新札発行記念】新千円札の「顔」北里柴三郎ゆかりの地を訪ねる。医学界の巨星を生んだ小国で辿る博士の軌跡と功績

2024年7月3日、日本銀行より新札が発行されました。千円札の新たな「顔」として肖像画に描かれているのは、近代日本医学の父として知られる北里柴三郎博士。これを記念して、編集部は熊本県小国町の『北里柴三郎記念館』を訪問。博士のひ孫でもある北里館長に案内していただきながら、いまと未来を生きる私たちに博士が託そうとしたメッセージを伺いました。


今回のin.LIVEは熊本県小国町にトリップ!
アステリアとゆかりの深いこの地から輩出された北里柴三郎博士にフォーカスを当てます。

2024年7月3日、日本銀行より新札が発行されました。千円札の新たな「顔」として肖像画に描かれているのは、細菌学者であり、『近代日本医学の父』として知られる北里柴三郎博士です。

in.LIVEを運営するアステリアは、博士の生まれた熊本県小国町(おぐにまち)に2017年より企業版ふるさと納税を行っており、ブランド材である「小国杉」5,000本の保全活動、モバイルアプリ作成ツール「Platio」を活用した「被災状況報告アプリ」の作成・運用などを通し、パートナーシップを構築してきました。

今回、編集部は、新札の発行を機会に小国町にある『北里柴三郎記念館』を訪問。
博士のひ孫であり、館長を務める北里英郎氏(医学博士・北里大学名誉教授、藤田医科大学客員教授)に館内を案内していただきながら博士の功績を伺うとともに、いまと未来を生きる私たちに博士が託そうとしたメッセージを伺いました。

北里英郎氏(医学博士・北里大学名誉教授、藤田医科大学客員教授)
1987年、慶応義塾大学医学研究科を修了。1996年まで研究員として欧州(フランス・ドイツ・チェコ)にて、ヒトパピローマウイルス(HPV)の研究を行う。帰国後、聖マリアンナ医科大学難病治療センター、北里大学医学部微生物学研究室を経て、2004年より北里大学医療衛生学部微生物学研究室教授を務める。定年退職後、北里柴三郎記念館館長として北里柴三郎の顕彰活動に従事している。北里大学名誉教授、藤田医科大学客員教授、森村学園・森村豊明会評議員。

館内の見どころと博士の生い立ちを知る

今日はよろしくお願いします! 早速ですが館内を回りながら博士の生い立ちやキャリア、功績についていろいろ聞かせてください。
では、『ドンネル館』から紹介しましょう。
ここは2023年9月、柴三郎生誕170周年を記念してオープンした館内でもっとも新しい施設です。ホールでは柴三郎が家族と交わした私信をはじめ、新千円札にまつわる資料を展示しています。

天井が高く、気持ちのいい空間ですね。使われているのは小国杉なんですね。あれ? このガラスケースは空っぽですが……。

そこには「AA券」と呼ばれる新千円札の若番号を展示する予定です。昨日、設置したばかりなんですよ。(※取材は6月27日実施)
それは貴重な展示品になりますね。いずれ、ぜひ拝見したいです!
ホールの向かいではAR技術を使ったデジタル展示を行っています。
また、ドンネル館完成を機に、施設各所にARのコンテンツを設けており、貸出するタブレットでQRコードを読み込むと動画などを多言語で楽しむことができます。これによって来館された方にはご自分のペースで柴三郎についてより深く知ってもらえるようになりました。

あとは、奥に進むとシアタールームがあります。ここでは柴三郎の人生を学べるオリジナル映像を上映しています。

先ほど視聴してきました。博士は最初から医学を志したわけではなかったことが意外でした。「医者と坊主は男子一生の仕事ではない」って。
そうですね。武士や軍人になりたかったみたいですよ。柴三郎は藩校時習館で学んだあと、西洋の学びも知ったほうがいいという両親の勧めもあって熊本医学校に通います。そこで熱心に学ぶ姿が、オランダ人軍医マンスフェルト博士の目にとまり、医学の道に進むことになります。

こうした柴三郎の経歴や功績は、『北里文庫』で詳しく知ることができます。行ってみましょう。

日本の公衆衛生の改善向上に尽くした博士の生涯

北里文庫ですが大正5年、柴三郎が私財を投じて子どもたちのために建てた、いまでいう図書館です。幼少期の勉学によって得られた知識が、後年、非常に役に立ったという経験から、子どもたちに学ぶ機会を提供したいという思いで建てられたと聞いています。

正面にあるレリーフを見つけられますか? かたどられた月桂樹は破傷風菌に打ち勝って以来、平和と栄光の象徴として用いられています。それから、屋根の両端にベルが付いていますよね。あれはヨーロッパのルネサンス様式を取り入れた柴三郎のこだわりです。

洋風建築の珍しさに、当時小国の方はずいぶん驚かれたんでしょうね。この佇まいはとても雰囲気がありますね。そして、建物の中は、現在、資料館として使われているんですよね。

博士は熊本医学校卒業後、東大(東京医学校)を経て内務省衛生局に入省されるんですね。いまでいう、厚生労働省ですね。
そして、最先端の医学を学ぶためドイツに留学し、のちに結核の研究でノーベル賞を受賞したローベルト・コッホ博士に師事します。ここで破傷風の純粋培養に成功したほか、世界初となる血清療法を発見したことで国際的に注目されるようになります。これは柴三郎最大の転機になりました。
留学を終えるにあたり、ケンブリッジ大学をはじめ欧米の研究施設から破格の条件でオファーを受けた柴三郎ですが、ドイツにはるか劣る日本の公衆衛生を良くしたい思いで、帰国を決めるんです
世界に認められた功績を携えての凱旋ですから、三顧の礼で迎えられたんでしょうね。
それが、『脚気(かっけ)論争』っていうのがありましてね。
脚気って、何かのビタミンが足りないことで起こる足の病気ですよね。
それです。当時、「脚気は細菌が原因である」という母校の先輩、緒方正規先生の説に異を唱えたところ、激しく非難され、帰国後は日本の医学界から総スカンをくらったんです。
海外からのラブコールを断ってまで帰ってきたのに……。
そうなんです。研究の場のない柴三郎に手を差し伸べたのが、福澤諭吉先生です。「彼には先見の明がある。再び海外に出てしまっては日本の損失だ」と言って、東京・芝公園に日本初の伝染病研究所を私費で設立し、柴三郎に所長のポストを与えたんです。
博士を見出した福澤先生もまた、先見の明の持ち主ですね。
その後の柴三郎は、ペスト菌の発見、「伝染病予防法」「開港検疫法」といった伝染病を予防するための法整備、結核予防協会、日本医師会の設立など、日本の公衆衛生の礎を築くために奔走します。「研究は世のために役立てなければならない」という考えが、柴三郎を突き動かしました。

自習館で学んだという「実学主義」ですね。
そうですね。しかし、伝染病研究所は、その後国立化されてしばらく内務省の管理下にあったのですが、文部省への移管が決まります。これが柴三郎には耐えがたく、所長を辞任してしまいます。
文部省に移ると、どうなるんです?

研究のための、研究をすることになるんですね。これは、「研究は世のために役立てなければならない」という彼の信念に反します。
なるほど。そういうことですね。
辞任後は弟子をともなって北里研究所を設立します。柴三郎が61歳のときです。その3年後には福澤先生のご恩に報いようと、慶應義塾大学医学科の初代医学科長に就任し、辞任するまで8年間無給で奉仕しました。「給与を受け取ったら恩義を返せない」と、どんな些少なお金も断固として受け取らなかったといいます。博士が生涯大切にした「報恩」を貫いたエピソードの一つです。

博士の愛した里山から未来へのメッセージ

北里文庫と同時期に建てられたのが、次に案内する『貴賓館』です。
ここは柴三郎帰省時の居宅、賓客をもてなすための場として使われました。見てください。天井が高いでしょう。これが当時の最大の贅沢であり、さらには使われている小国杉も節のない柾目材です。曇りガラスも108年前のままです。

貴賓館の一階

どの建物もすみずみまで見せていただけるなんて、なんとも贅沢ですね。
二階から臨む里山の景色は素晴らしいですよ。柴三郎がなぜここに貴賓館を建てたのか分かる気がします。大正建築の間で目の前の涌蓋山(わいたさん)を目に映し、横を流れる北里川のせせらぎを聴きながら過ごす。東京のようにビルが建つこともなく、この風景は108年経ったいまも変わることがありません。それを柴三郎は知っていたんでしょうね。とても豊かな時間が流れていると思います。

柴三郎は北里川で泳いだり魚をとったりしていたそうです。「川で採れるシロハエ(カワムツ)が食べたい。送ってほしい」ときょうだいに手紙をしたためたのも、こうした里山文化で育った幼少期を懐かしく思ってのことだろうと思います。

貴賓館二階から眺める景色

博士の見ていた景色を、いまここで同じように眺めていると思うと、とても感慨深いです。
一方、当時は「身分制度」という差別への葛藤と、自分の可能性を広げる舞台でもあったと思います。柴三郎は「農」の出であり、侍のための学校である藩校に入りたくても入れませんでした。その不条理さを糧に、いまの立場で学べる限りのことを学んできました。その後、明治維新という“扉”が開いて、武士以外の子弟の入学が許されたとき、柴三郎は新しい風を感じたと思います。「これから時代は変わるぞ」と。その後通った熊本医学校は現在の熊本市にありましたが、柴三郎は獣道を3日歩いて通ったそうです。今でも車で2時間近くかかる距離です。なかなかできることではありません。

これは自分の努力によって自分の人生を拓かなければいけない、というバイタリティーの表れです。その強い思いが、柴三郎の人生を動かしていったんだと思います。柴三郎の信念を表す「熱と誠」の原点と言えるでしょう。
博士のお人柄を知れるエピソードとして、伝え聞かれていることはありますか?
雷親父と呼ばれていたそうです。仕事に厳しく雷のように怒る人で、『ドンネル館』の名称もドイツ語の「雷」から来ています。けれども、そこには愛情と信頼関係があるから、お弟子さんはついていったんだと思います。

柴三郎の座右の銘は、『任人勿疑 疑勿. 任人(人を任じて疑うなかれ。疑いて人を任ずるなかれ)』です。お弟子さんの失敗はすべて自分の責任として受け止め、お弟子さんが功績を上げたときは黒子に徹する、そういう人でした。志賀潔先生が赤痢菌を発見したときも、柴三郎は本人の努力のたまものと言って、自分の名前を表に出すことは一切ありませんでした。そういう親分肌の面もあったと聞いています。

博士が、恩師や研究仲間、お弟子さんに送られた手紙がたくさん残っているのを見ると、たくさんの人に尊敬され、慕われていたことが分かります。

「新札発行を機会に小国町の魅力に触れてほしい」

ところで、博士が千円札の肖像画に選ばれることについて事前に連絡はあったんですか?
もう全然。ニュースで知りました。
そうなんですね。でも、20年に1回の改刷です。「もしかしたら」って考えたりは……?
いやいや、柴三郎の弟子にあたる野口英世先生が選ばれたときに「もう無いだろうな」って思っていました。
そうだったんですね…!
新札発行を機会に小国町にもスポットが当たっていますが、北里館長が感じている町の魅力を聞かせてください。
小国町は林業を中心に、一部ジャージー牛の乳酸業で知られる土地です。観光名所でいうと、阿蘇のカルデラをつくった約9万年前の巨大噴火でできた鍋ヶ滝が有名です。

小国町は豊後にあたり、“三後の地”としてくくられる、築後、肥後とともに、独特の文化を育んでいます。福澤先生が19歳まで過ごした大分県中津市も豊後に位置し、小国町とは距離にして60キロと近いんですね。ですから、言葉をはじめ文化圏もよく似ています。柴三郎と福澤先生の会話はお国言葉だったんだろうなって想像しています。
発行されるにあたって、どんな思いでいらっしゃいますか?
これを機会に小国町だけじゃなく、熊本そして九州全体が盛り上がるといいなって思っています。福澤先生から役目を受け継ぐような思いもあるので、そのつながりも感じています

最後に、博士の生涯を通じて若い世代や研究者の方にメッセージをお願いします。
海外に出て、たくさんのチャレンジをしてほしいですね。そして、そこで得た学びを日本のために役立てる方がたくさんいらしたらうれしいです。

もう一つは、日本の文化を大切にしてほしいと思います。たとえば、綺麗な日本語を話す人、書ける人、手紙の形式や日常の作法など日本ならではの慣習を知る人がどんどん減っていることを懸念しています。転じて、明治時代の人は日本人としての誇りが非常に強かったように思います。

新一万円札の渋沢栄一もまた、日本を良くしようと尽くしてきました。私たちもいま一度、日本人としてのアイデンティティに立ち返り、歴史や文化を大切に継承する必要を感じています。

あとがき

北里館長の語る博士は、感染症との戦いに終始一貫して挑む強い信念にあふれていました。医学を通して新しい価値を生み出し、社会をより良くしようと努力し続けるその姿は、イノベーションを起こし世界の常識を変えようと進化を目指す、テクノロジーの世界と重なるものがあります。

日本のため、次代のため、と世の中に尽くし続けた博士の信念と行動が今日の安心安全な社会をつくったことを、新千円札を手にするたびに思い起こすとともに、わたしも一つの信念を持って社会参加したいと、気持ちを新たにしています。

なお、記念館はこのほか、博士の生家や北里文庫に併設された書庫、博士がお手植えした夫婦杉など、見どころがたくさん。近くには名湯として知られる杖立温泉・わいた温泉もありますよ。博士について学んだあとは、小国町の魅力にもぜひ触れてみてくださいね。最後までお読みいただき、ありがとうございました!

◆関連リンク

・北里柴三郎記念館 公式サイト https://s-kitazato.jp/
・熊本県小国町 公式ウェブサイト https://www.town.kumamoto-oguni.lg.jp/

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この記事を書いた人
香川妙美 山口県生まれ。音楽業界での就業を経て、2005年より自動車関連企業にて広報に従事。2013年、フリーランスに転身。カフェガイドムックの企画・執筆を振り出しに、現在までライターとして活動。学習情報メディア、広告系メディア等で執筆するほか、広報・PRの知見を活かし、各種レポートやプレスリリース、報道基礎資料の作成も手掛ける。IT企業・スタートアップ企業を対象とした、広報アドバイザーとしても活動中。